林立する本の棚からは、きっとマイナスイオンかなんかが出てる。
今日はしばらく行けなかった図書館にひさびさに行った。私の苦手な生き物がうようよしてはいたけれど、そのすきまから本棚を見て、にやにやして、うきうきして、鞄に入らない量の本を借りた。
本当は頭の中の読みたい本リストの上から順にみていくつもりだったけど、なんとなく今は殺伐としたくなくて、そしたら読みたい本リストのほとんどがつぶれて、とりあえず児童書のあたりをうろついたりしてた。
駅に募金を集める人がいる。
よくみかけるそんな風景のなかに、きっと私が通る時間よりずっと前からがんばっている学生さんの群れがある。
私が通る頃には枯れた声で叫んでる。
学生A「ひさいしゃのためにぼきんをおねがいしまーす」
学生BCDE「おねがいしまーす」
ああなんかあれだよね。学芸会を思い出したよ。
あれをみるたび神経がささくれ立つのでなるべく聞こえないように離れて通るんだけど、駅のまん前だからよけることもできない。
近くで叫ばないで。私は大きい声がこわい。
声が嫌いなのは私の特性だからしょうがない。
私は悪くないけどあっちが悪いわけでもないから苦情をいうようなことじゃない。
私が猫アレルギーだからって、猫飼いさんは電車に乗る前にコロコロしてこいと要求するわけにはいかないだろうってのと同じこと。
そんでも嫌なもんは嫌なので、坊主憎けりゃ袈裟だってそりゃ憎い。
「嫌なもの」に見える。
なんだか「被災者」のためじゃなくて「声を枯らして頑張る学生さん」が主役の運動みたいねとか思う。
「むしろこちらが励まされています」と言うためにボランティアをしにいく人みたいに、無自覚で本気で善意で嘘臭い。
そういう風に見える私の目も嫌だなと思ってさらに心がささくれ立つ。
今日図書館に行って、自分でちょっとやばいと思った。
とりあえず今年度の累計利用回数が4回なのはどうかしてる(※本日4月2日)。
やばい嬉しいすごい楽しい。
世の中の空気が落ち着かなくて、ただでさえマイナスのできごとばかりで、それを伝える情報源は不安や恐怖を煽るようなやり口のものが多い。
私はあんまりちゃんと見てないんだけど、それでもけっこう疲れちゃってた。ちょっとしたことでいつもより嫌な方向に反応しやすくなってる。
そういうささくれをなだめてくれるのが私にとっては図書館で、図書館に行けない(実際に行くかどうかは別として、いつでも行けるという安心感がない)というのは思った以上にストレスだったんだなと思った。
負荷がかかるという積極的なマイナスじゃなくて、安心感を欠くという消極的なマイナス。
私は基本的に常に不安だから不安慣れしてる。安定感が失われたショックだとか不安に耐えなければいけない恐怖に突然直面することになった人のようなダメージはない。量と種類が変わっただけで、不安なのも怖いのもいつもどおり。
そもそも私はすぐに諦めるし投げ出すから深刻なダメージは受けない。受けてもすぐ気づいて今日は疲れたから宿題してないけどもう寝ちゃえってなる。
それでも安心毛布な図書館に再会するまで、自分がいつもよりちょっと疲れていることに気づかなかった。というか、ささくれてるなーとは思っていたけれど、軽く見積もってた。
私でさえそうなんだから、被災者じゃないとか被害者じゃないとか恵まれてるとか知り合いがみんな生きてるとか、若いとか健康とか仕事があるとか男だとか、自分が弱音を吐く立場に居ないと思っている人は、なおさら気づかないんじゃなかろうか。
日頃それなりに安定していて、頑張れちゃう人は、今みたいな状況の中でゆるゆるとダメージを受けていくことに気づきにくいんじゃないかと思う。
気づいても、「自分は被災してるわけじゃないんだから」って己を戒めて、癒されたり楽しんだり憂さ晴らしをしたりすることを許せなくなっちゃう人がいるんだと思う。(他人に難癖つけたがる人もいるし)
そういう「大丈夫な」人が今は気になってる。
大丈夫な場所にいる人は大丈夫じゃない場所にいる人より絶対的に大丈夫だから、大丈夫じゃない場所の人と同じになったつもりで同じレベルで辛くなっちゃだめだ。
大丈夫じゃない場所の大変さを共有できないってことを忘れて、知ったような気になってはいけない。
でも、大丈夫な場所には大丈夫な場所なりの疲れがあって、大丈夫な人にも大丈夫なりのささくれがあって、そういう痛みは自覚しておいたほうがいい。
痛くても疲れても頑張らなきゃいけないときはあるし、頑張れるなら頑張っていいんだけど、疲れてきてるなってことを無視してると後からどっとくる。
べつにさ、足の小指をぶつけた程度で泣いたっていいんだよ。