2014年04月12日

する自由・しない自由


なにかを「する自由」は、「しない自由」とセットで初めて成立する。
「しない自由」がない場所に、「する自由」は存在できない。
自分の意志で、本当にそれをしたくて「する」ことを選んだのだとしても、「しない自由」がない場所で望んだ「する」は「させられる」と等価だ。
「しない自由」も同様に、「する自由」なしには成り立たない。


たとえば自らの信仰に依ってベールをまといたい女性がいたとする。
一方で自らの信念に依ってベールを外したい女性がいたとする。
ベールの有無を強制する社会の中では、彼女たちが自分の希望通りの衣服を着られたとしてもそれは「自由」ではない。
法律で脱げだの被れだのと強制されたとたんに、彼女たちの意志表示は法律に従っただけの制服になってしまう。

たとえば自ら望んで「国のために戦い尊い命を犠牲にされた御英霊」とやらがいたとする。
その人が自らの信念に従ってお国に殉じたのだとしても、後世の私からみれば、徴兵されて面子争いのとばっちりで犬死にさせられた不運な人や、最前線にとばされた「非国民」と区別がつかない。

そして、「しない自由」を否定する「させたい」側は、「したい人」と「させられた人」を区別しない。
拒めなかった人も望んだ人も同じ、ただの数字だ。
「しない自由」のない場所は、したくない人が「しない自由」選ぶ権利を侵すばかりでなく、したい人が「する自由」を選ぶ意志すら貶める。
その逆もしかり。



関連
ランドセルのCM
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2011年02月05日

寄せ植えの地球

カカオをちゃんと育てるには、カカオの木だけを植えるんじゃダメなんだそうな。
あっつい国が好きだけど木陰で涼みたいから、
日差しをさえぎってくれる大きな木がなくちゃいやん。
ふかふかのベッドも欲しいから、足元には土を整える小さな植物もなくちゃいやん。

カカオだけを力技で育てるプランテーション化をまぬがれたマヤの人たちは、
巨大菓子会社のチョコレート戦争に参戦しない自家用カカオを他の作物と一緒に育ててきた。
その辺に勝手に生えてるカカオもそうやって生きていた。
(マヤ人の農法はフェアトレードのエコチョコレートという
付加価値がうまい具合に流行ったおかげでどうにか生き残った。
というこれはGreen & Black's のMaya Goldという商品のお話)


それを読んでへーそうなんだカカオは寄せ植えなのかワーオと思った。
それから、いやでも普通に考えてそうだよなと思った。
不自然だよね。一種類だけずらーっと生えてるのって。
そういう種類の植物もあるかもしれないけれども私はよく知らない。
きのこのトリュフを養殖できないのも
生育に必要な環境づくりが壮大すぎるせいなんだろうか。

そういや田んぼも稲だけだ。
田園はきれいだし稲作のおかげで文化が発展したしお米大好きだけど
あの「古き良き自然に癒される美しい風景」は
森を切りメタンを発生させ温暖化に貢献する、地球に優しくない非エコな場所らしい。

違うものを一緒には育てない。
異物は殺虫、土は消毒、よく育つように肥料を投与。
似たような環境に誤差1年で生れ落ちたのみならず
服装も髪型も、頭の中身もできるだけそろえた子どもたちが
みっしりつまった教室を連想した。


ひとりはイヤンなカカオちゃんをカカオだけで「効率よく」量産するには、
農薬やら肥料やらをしこたま投入する。
生産者には身体的にも経済的にも負担がかかる。

自然だからいいとか正しいとか、不自然だからダメだとか、
その手の言い分は危ない。原理主義的で怖い。
でも、「不自然な姿勢で本を読むと目が悪くなります」のような、
そのやり方には無理がある・不合理だという意味の「不自然」には目を向けたい。
無理がかかる部分が、好き好んで無理を選べる立場にないなら尚更だ。

無理がかかるからダメってのとも違う。
その無理の結果ゆがんでしまうのはどこか。
ゆがみを引き受けなきゃいけないのはどこか。
利益は無理とゆがみを許容するに足るほどのものなのか。
利益を得るものが負担も負うのか、利益と負担は別の場所にたどりつくのか。


不自然だからダメとか、利益が出るからいいとか、
そういうのってダメな宗教じみてる。
神様がそういったからそうなんです、で思考停止してしまう。
なんで不自然だとダメなの?なんで利益があるといいの?
そうだからそうなんですなんて「理由」は
人を犠牲にしていいほどの根拠にできるとは思えない。


本当は感想文を書こうと思ったんだけど論点がズレてしまった。
↓この本を読んでた。(⇒感想


本の中に、マヤ・ゴールドが成功して、思った以上に需要が増えて、
もっと生産を増やしたいGreen & Black'sの人が
マヤ人は怠け者だと毒づく記述があった。
(植民地でプランテーション化されたカカオ産地の中で
オーガニックとフェアトレードの基準を満たせる所を見つけるのは難しい)
ジョークじみていて笑えない。

海辺へバカンスに来たアメリカ人実業家が、
さっさと仕事を終わらせてのんびりする地元の漁師をみて
「君はもっと長い時間漁をするべきだ。そうすればもっと利益がでる。
そして稼いだお金を元に事業を起こしてもっと働くんだ。
そうすれば金持ちになって海辺でのんびりする生活ができる」
って言うジョーク。


↓田んぼの話はこっち。
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2011年01月12日

人間らしく見えないのは人間だから

今日のクローズアップ現代で、アンドロイドの話をやっていた。
人間そっくりのロボットを開発してみたよって話。
見た目は蝋人形やオリエント工業みたいな人間度で、
さらに遠隔操作で表情なんかも動く。音声プラス口パクでしゃべる。
やっぱりちょっと不自然なんだけど、それはこの機械なり人形なりを
物ではなく人間とみなしてしまうから感じる不自然さなのだろう。

あのクラスメイトは芸能人に似てるよねと言うときの「似てる」は
雰囲気や髪型や目の形が同じ系統という程度で良いけれど、
ものまね番組のそっくりさんに求められる「似てる」は「同じ」に限りなく近い。
だから実際にはそっくりさんの方が本物に近くても、
クラスメイトなら「似てる」、そっくりさんは「似てない」と感じる。
そんな風に、人間と同じ自然さを求めてしまうほどの不自然さだった。

ところで番組の中でアンドロイド開発で世界の先を行く日本がどうのって言ってたけどそもそも人型ロボットにそんなにこだわるのは日本くらいなんじゃ…

で、あんまり番組の内容と関係ないんだけど、ふたつ考え事をした。


出てきたアンドロイドは若い女性と、
40歳前後くらいの男性をモデルにしたものだった。
若い女性は肌も髪も顔もきれい。
男性型アンドロイドはひげの剃り跡も微妙に残ったような荒れた肌。

男性型のモデルになった開発者はいかにもロボット研究の人っぽくて、
挨拶もそこそこに解説をしはじめるようなイメージで
(でも周囲が見えていないわけではないわかりやすい説明だった)
接客業みたいなスマイルゼロ円の人ではない。
アンドロイドだから不自然なのか元の人がカクカクしてるのか微妙にわからない。

うん、だから、人はともかくロボットで眉間にしわを寄せて笑顔がない
(というか表情があまり変わらない)のって怖いね。

でもこのくらいのレベルで表情が動かない人は、実はけっこういる。
事故や病気や加齢で筋肉が動きにくくなったり、
義眼だったり、眼球があまり動かないとかで、
自分で思っているよりも表情が動いていないとか、
あるいは単純にこういうシーンではこういう風に筋肉を動かして
こういう表情を作りましょうってことに慣れていないとか、文化の違いとか。
王道の振る舞いは王道にいられる人にしかできない。

前に発達障害の人が、
「自分では普通にしているだけなのに感じが悪いとか馬鹿にしていると怒られるので不思議だった。こんな時には口角を上げて眼を細めて笑った表情を作るんだとか、こんな時には笑わないとか、謝るときにはこんな顔を作るというパターンを教わったらだいぶ生きやすくなった」
ということを言っていた。

ラッシュの電車や混んでるマックで歯車になれない、
パターンどおりの行動ができない人は白眼視される。
日本の女性はいつもニコニコするから外国で勘違いされやすい
(俺に気があるなとかヘラヘラしてんじゃねえよとか)という話もよく聞く。
テレビのアンドロイドを見ていて、
「普通」に振舞えないがゆえに嫌な目に会う人たちを連想した。


前に若い女の子と携帯でメールしたとき、
私は普段絵文字をほとんど使わないんだけど
相手がたくさん使う子だったので、がんばってキラキラさせてみた。
しばらくしてまたメールしたとき、
仲良くなってきたし面倒くさいし、まじめな話だったので、
ついうっかり文字だけのメールを送ったら「怒ってる?」と聞かれた。
そうか真面目な時ほどニコニコしなくちゃだめなんだっけ。面倒くせぇ。難しいな。

大丈夫だと表現され続けないと心配になってしまう気持ちも実はわかる。
言葉よりも動作や表情や印象や社交辞令や服装や
言葉の裏を読んで察することを過剰に重視する社会の中では、
「普通」の反応を返してくれない人と相対するとものすごく不安になる。
そういう「普通」に過剰適応した人は
「普通」をやってくれない人に苛立って、時に攻撃さえするから
「普通」をやれない人は「普通」の中ではものすごく生きづらい。

ロボット研究はどんどん進化を続けていくんだろうけど、
もうアンドロイドはこれでいいんじゃねえかなって思った。
このくらいの不自然さがそこらじゅうにあふれたら、
人間を教材にしないで、こういう「不自然さ」に慣れることができるんじゃないかな。

違うものに対する恐れを消すには、
朱に交わらせて赤くするより、十人十色を知るほうが確実だ。

長くなってしまったのでもうひとつの考え事は今度。

posted by ヒギリ at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 差論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月09日

自然とか不自然とか

したくもないのに「すべき」とか「自然」とか「普通」とかいう理由で周囲に追い詰められて我慢できる程度の人と婚姻して同居して歯を食いしばってセックスに耐えて子供はほしくないのになんかなしくずし的に避妊しなくなって自然妊娠して痛いのが苦手で怖いのに麻酔なしで出産して…

と、

信頼できるパートナーと一緒に居たいから一緒に暮らして子供がほしいから避妊しないでセックスしてるんだけど妊娠しないから不妊治療をしてけっこう難しそうだから卵子も精子も提供してもらって体外受精で40代にようやく妊娠できて育ててみたら二人目もほしくなったので里親になって…

と。

どっちが自然って言われたらそりゃ後者だろうと私は答える。

前者だって自分の意思だし、後者の選択に周りの圧力が関係ないとは限らないけど、
基本的には自分がしたくてできることをするのが「自然」だろう。
(他人を侵害しない限りで)


現象の「自然」と、思考の「自然」をごっちゃにしている人が多すぎる。

「冬が寒い」のは自然な現象。
だからなに?寒くてつらいなら暖かくすればいい。
「布をまとうと暖かい」のも自然な現象。
「寒いからもう一枚、服を着ましょう」は自然な思考。
ついでに「気温は低いけど私は寒くないから薄着でいい」も自然な思考。

ユニクロのヒートテックのなんとかは自然界に存在しない。
だからって「そんなのは「不自然」だ。動物らしく裸で過ごせ」ってのは不自然な思考だ。

それでも“自分が”そういう主義だから自己所有の雪山あたりで
“自分だけが”我慢大会するのなら好きにすればいいけど、他人に強要しないでほしい。
子供を寒い戸外に裸で放置するなら虐待だ。
着衣禁止立法のための運動だのユニクロ廃止運動だのをするならやりすぎだ。


自分の言ってる「自然」ってのが
「なにもしなければそうなる」ということなのか
自分にとっての自然な思考」のことなのか、
ちゃんと区別したほうがいい。


posted by ヒギリ at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 差論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月30日

障害の話題は福祉以外にもある

小学校の教員が、国語の授業で点字について教えた際にスパイ同士が暗号を使うという設定で「殺される前に殺せ」などの例文を使ったというニュースを見た。

殺人をネタにすること自体についてはわりとどうでもいい。一度話題になるとバカの一つ覚えみたいに延々と似たような話ばかりを報じることにうんざりする。他にやることあるだろと思うんだけど、それはそれとして内容がちょっと気になった。

「殺される前に殺せ」を点字翻訳…小学校教諭、授業で
2010年11月29日 読売新聞

「教材として不適切」ということで問題になったらしいんだけど、その理由として「点字を使う人に失礼ではないか」というものがあげられている。
(記事によって校長の謝罪だったり保護者からの指摘だったりするので誰がそう言ったのかはよくわからない)

これ読んで私もちょっと思ったけどさ。
いやいや暗号じゃねえよただの文字だよと。

でも国語だろう。社会で「視覚障害者について」だったら、「視覚障害者を」特別な存在にしてしまうという点でダメだけど、国語で「点字を」学ぶなら、興味を持たせるためのゲーム要素ってのは別にいいんじゃないか。穴埋めドリルや漢字パズルだってゲームだし。
殺人をネタにすることの倫理はまた別ね。

誰が誰に対してどのように失礼だと思ったんだろう。
障害者を取り扱うなら真面目に硬く深刻にせねばということなら、それも障害者を異質な他者としてしかとらえないという失礼な見方だ。


そんで「手招くフリーク」を思い出した。



加藤晃生の【手話音楽のこれまでとこれから】(第8章)が、手話と手話音楽(歌に手話の振り付けをしたパフォーマンス)についての話だった。
今の日本では手話と聾者が不可分で、聾者(聴覚障害者)と福祉も不可分で、“手話=ボランティア・福祉”みたいなことになってしまっている。
手話は聾者の言語だから、聾者と手話が不可分なのは当たり前。ただそれとは別に聾者を支える手話関係のしくみがあまりにも不足しているから、手話ができる人には役立って欲しい→手話を習った人には福祉コースがてぐすね引いて待っている。習う人はそれに怯んで興味本位で手を出すことができない。
だからもういっそ切り離しちゃえよ、手話音楽は手話音楽というパフォーマンスジャンルのひとつにしちゃえよってなことが書いてあった。
(乱暴なまとめなのでちょっと違うかもしれない)

それを読んで、目から鱗が落ちた。
私は「手話は聾者のものだから、聾者を無視して手話音楽を聴者が奪ってしまうのはダメだろう」と考えていた。
それはそうなんだ。聴者の手話サークルが自分たちだけが楽しく善い気分に浸れる日本語手話(日本語を直訳した手話。聾者の言語である手話とは文法が違う)による手話音楽発表会を、別に見たがってない聾者に見せてやるたぐいの「善行」はそりゃダメだ。
でも、福祉や聾者とイコールで結ばない手話音楽、送り手や受け手が誰であれ(聴者であれ聾者であれ)カッコイイとか楽しそうとかいう理由で入っていける手話音楽っていうのはいいなあと思った。
目の前の人の感情を無視するのと、物事の背景を知らないのは、同じ「見ない」でもだいぶ違う。

たとえばゴスペルは黒人音楽だけど、美しいからってだけの理由で聴いたっていい。
ゴスペルにのせてヘイトを歌うような歴史の無視なら論外だけど、背景を知らずに好きになって、そこから歴史を知っていくのはありなんだと思う。知らないまま楽しむのも不謹慎なことじゃない。
ゴスペルを好きな人の絶対数が増えれば、そこから文化や歴史に興味を持つ人の数も増えるだろう。

車椅子バスケットに憧れるのは失礼じゃない。
点字も、暗号みたいでカッコイイ!ってところから興味を持つのは別に失礼なことじゃない。
そこで車椅子ユーザーはみんな体育会系だとか視覚障害者はスパイだとか視覚障害者は全員全盲で全員が点字を読めるとか思われちゃうと困るけど。

障害関係のことになると、なんでも福祉や「してあげる善行」になってしまうのはよろしくない。
車椅子について学ぶったって、技術でしくみ、美術でデッサン、保健体育で体の構造や病気や障害、社会なら販売数や法律や歴史などなど、モノ自体を調べるにせよユーザーの置かれた状況を知るにせよ、切り口はいくらでもある。興味を持つための入り口はどこにでも作れる。

「点字を使っている人に失礼」という発想は、(どういう使い方だかわからないから、このケースがどうかはなんとも言えないけれど)ある一定の見方を押し付けるものになりがちだ。
元気だろうが立ちたい事情があろうがおかまいなしに、とにかく電車で障害者を見たら無理矢理座らせる、みたいな、気配りのつもりの迷惑な自己満足に近いものを感じる。


関連リンク
倉本智明 編『手招くフリーク』生活書院の感想
電車で視覚障害者を見かけたら
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2010年10月01日

腹を満たすのは権利

カモかなにかを飼っている。
もちろんエサやりをする。

エサを与えないのは虐待だ。
エサを流し込んでフォアグラにするのも虐待だ。

エサやりとは「食事の世話」。
適切な量のエサを与えるということだ。
食事の時間と食事じゃない時間のセットで「エサやり」。
むやみに触らないこともふくめて「手入れ」。

与えすぎる飼い主はエサやりをできていない。
与えないのは論外。

必要な質や量は個体によって差があるし、
与えることができる質や量は飼い主の状況によって差がある。
ただ確実なのは、生きたカモを飼うにはエサやりが必須ということ。
エサが多すぎたり少なすぎたりバランスが悪かったりすることはあっても、
エサやり(=食事の世話)が多すぎることはない。
(カモを損なうメニューや量や回数なら「エサやり」ができていない)


子どもの権利を認めたら子どもが増長するとか
「ゆきすぎた人権」とか言う人は、
(本気で言っているとしたら)エサとエサやりを混同している。

そんで、カモのエサにいちゃもんをつける人たちは、
自分の食事が貧しいことの腹いせが大半に見える。
でもカモのエサを奪ったって、そのエサを人は食えない。
自分の食事は豊かにならない。

カモのエサを奪って利益を得る悪食の人はたぶんカモなんか飼ってない。

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2010年09月23日

大事な誰かはプライスレス(無価値的な意味で)

たとえば辛い生い立ちを抱えて苦しんでいるときに出会った最愛の人と艱難辛苦を乗り越えてくっついて結婚したはいいけれど病気が発覚して辛い闘病を乗り越えて命懸けの大変な難産の末にようやく生まれた生後三ヶ月の可愛いわが子。

たとえば結婚して幸せに暮らし始めたと思った矢先に夫が突然の不幸な事故で死亡して実家も既になく身重の体で慣れない労働に励み子供が生まれたら乳児を背負い働きづめに働きつつ愛情もしつけも忘れず貧しいながらも明るく育て上げてくれて退職すると同時に病に倒れた老母。

そいつらに今どれだけの価値があるかっていったら、ないよ。

赤ん坊は30年も経てば大金を稼ぐかもしれないけれど、
そんなら金をせびるロクデナシになる可能性だってある。
少なくとも今はなにもできないし、これからカネも手間隙も時間もかかる。
いなくなって困ることはなにもない。
むしろ夜鳴きミルク下の世話などにわずらわされずにすむ。

老母に至ってはこの先期待できるカネなんて年金くらいだけど
貧しい女の受給額なんてタカが知れているし、
これから介護も必要になるだろうし医療費もかかる。
いなければ世話も介護の心配もいらない。

こういうのがいなくなって困ることなんてなにもない。
せいぜい葬儀の手配くらいだ。


なのに赤ん坊が殺された話は、ものすごくひどいことに聞こえる。
「まだ生まれたばかりなのに」
「まだなにも知らないのに」
「なにもそんな赤ん坊まで殺すことないのに」
「親御さんもかわいそうに」

年寄りが殺されたと聞けば、やっぱりひどいことだと思う。
「そんなに長いこと生きてきて、そんな最後なんてあんまりだ」
「か弱く老い先短い老人を殺すなんて」

若い人なら「まだ若いのに、人生これからなのに」
働き盛りなら「小さい子供もいるだろうに」

結局ひどい話は被害者が誰であれひどい話に違いない。
被害者の(個別の事情ではなく)属性をきいたとたんに
「ひどくない」話や「しかたない」話になるのはひどい話だ。
人の価値を諮る基準が経済的な部分だけなんてのもひどい話だ。

posted by ヒギリ at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 差論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
タグクラウド
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