2015年05月04日

志村真介『暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦』講談社現代新書


真の暗闇を体験するドイツ発祥のイベント、ダイアログインザダーク(DID)の日本版を主催した人の手記。
良いのはイベント自体への興味がわくこと。行きたい。もっと知りたい。
悪いのは著者のマジョリティぶり。
自分が知らないだけのことを「知られていない」と思いこんでいる無知にいらいらする。


日本版のDIDは「ダーク」より「ダイアログ」に比重をおいて、ソーシャルビジネスとして成功をおさめているらしい。
普段目にたよった生活をしている人は暗闇に入ると無力になる。
他の感覚にたより、他者にたより、目から入る情報に惑わされずにフラットな関係をつくる経験が、あらたな価値観につながる。
暗闇で戸惑う入場者たちをサポートし、案内するのは全盲の視覚障害者たちだ。


私がDIDをはじめて知ったのは、10年くらい前だった。
短期のイベントだったころに学校の先輩がアテンド(案内役)のバイトをやるからとチラシをくれた。
そのときは行きたいと思いつつ微妙に遠いしお金ないしでためらううちに機会をのがしてしまった。
今これを読んで、行けばよかった、先輩の体験を聞けばよかったと後悔してる。
DIDが変化をもたらすのは体験した晴眼者だけではなく、アテンドの視覚障害者、関係する晴眼者、街の雰囲気にまで及ぶ。

著者もDIDにかかわるうちに変化する。
視覚障害者とかかわった経験のない人が視覚障害者と実際に接していろんなことに気づいて行く。
ただ、その気づきが遅いし当たり前だしですごくいらいらする。
視覚障害者も人間だなんて当たり前すぎる発見だ。

そもそも「視覚障害者」という言葉でアテンドをくくるのがおかしい。
暗闇で動き回れるのは「全盲」の人であって、全盲は視覚障害だけど視覚障害=全盲ではない。
しかもアテンドは全盲のなかでも「動き回れる」「イベントに参加するくらい積極的で自立した」人たちだ。
それを理解していないから、「視覚障害者の持つ高い能力」などという薄っぺらいステレオタイプな表現になる。
「日本人の繊細な感覚」「私たちが忘れてしまっている〜」というステレオタイプも頻出する。

でも、そういう人がアテンドたちとかかわるうちに、この人たちはシカクショウガイシャという生き物ではなく目が見えないただの人なんだと気づいていくようすは、どっぷりマジョリティにつかった人が目を開いていく過程そのものだ。
変われるのは希望。だけどまだまだ。
たとえば東日本大震災のときにアテンドに「実家に帰るよう指示した」というけれど、ふつう「対等な関係の成人」にそんな「指示」はしない。

ただどうもこれは著者の性質にもそうとう原因があるようだ。
DIDの独自性をしめす一例として「お金を払ってサービスをうけるがわから礼を言われるなんて普通はない」とあった。
いやいや、接客業なんてそれがあるからやっていけるようなもんだろうよ。
が、読み進めたら高速の料金所の人を人とも思わないような対応をして同乗者に注意された体験が書いてあった。
それをみて、ああよくいる感じ悪いおっさんたちは、感じ悪くふるまっているんじゃなくて本当に「できない」のか!とびっくりした。
自分と関係ない人は「人」に見えない人がいる。
この本で一番の発見はそこかも。

イベントを続けるうちに全盲スタッフと晴眼スタッフの関係が、被保護者と保護者のようにゆがんできた、という話も「普通の会社ではありえない」とあった。
いやいやありますがな性別やら年齢やらで。
「女の子はむりしなくていいから」みたいなパターナリズムはむしろ一般的でしょうや。
『マルコムX自伝』にも、黒人集団のなかに白人がいると黒人がダメになる。とあった。
女子校の女の子たちはなんでも自分でやるけれど共学の女の子は積極性が抑制されるという話にも通じる。
抑圧されているがわは他人をおしのけてまでリーダーになる自信や習慣がないから、マジョリティがでばってくると後ろにさがってしまう。
これは双方とも意識して気をつけなきゃいけないことだ。


読んでいるあいだじゅうものすごくいらいらしたんだけど、読んでみて後悔はない。
琴線に触れるものがあるからイライラするタイプの本なんだと思う。

暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -

完訳マルコムX自伝 (上) (中公文庫―BIBLIO20世紀) -
完訳マルコムX自伝 (上) (中公文庫―BIBLIO20世紀) - 完訳マルコムX自伝 (下) (中公文庫―BIBLIO20世紀) -
完訳マルコムX自伝 (下) (中公文庫―BIBLIO20世紀) -
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2015年01月17日

アルコ『俺物語!!』(7) Aセク読み

超男前高校生が主人公の少女漫画。
男前というか「漢」というか「おのこ」というか「アニキ」というか。
少女漫画なのに主人公がごつくて暑苦しい野郎な異色作品。
その7巻がAセク的に面白かったです。
恋愛ものなのに恋愛向きじゃない人を無視せず描いてくれていて嬉しかった。

俺物語!! 7 (マーガレットコミックス) -
俺物語!! 7 (マーガレットコミックス) -


以下ネタバレ。



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ラベル:セクマイ読み
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2014年05月06日

「自分」の範囲

民話や昔話のパターンのひとつに、子供を異形にさしだす話がある。
差し出される子供は色々。腹の中の子も赤ん坊も娘も息子も取られる。
扱いも色々。養子にとられたり嫁に請われたり召使いや生け贄にされることもある。

ラプンツェルの父親は、妊娠中の妻のために魔女の畑から盗みをはたらき、美女と野獣の父親は野獣の庭から娘へのみやげのバラを折る。
そして持ち主に現場を押さえられ怒られて「なんでもするから許してください」「じゃあ娘をよこせ」で娘を差し出す。

「誰かこの仕事を片づけてくれたら何でもくれてやるのになあ」と独り言をつぶやいたり、動物に「この窮地をどうにかしてくれたら婿にしてやるぞ。なんちゃってー」と戯言をいってみたら、後日「さあ片づけたぞ約束を守れ」と迫られるタイプの話も多々ある。

その場しのぎ、覚悟の契約、うっかり失言、報酬が子供だとわかっているケースわかっていないケース、色々あるけれど異形に子供を売り渡すのはたいてい父親の役目。

母親が子供を外に出すときは、故意に捨てるか能力を詐称して王様に嫁がせるようなのが多い。
つまり、自分の負担を軽くしようとか自分の老後を安泰にしようとかの打算はあるにせよ、あくまで子供をどうにかしようとする。
父親の場合は、自分の願いをかなえてもらうための報酬として子供を支払う。
なんで子供とひきかえに願いを叶える役はいつも父親なのかと不思議に思っていた。


岡本かの子の「渾沌未分」という話の中に、零落した貧しい娘を小金持ちが買おうと交渉する場面がある。
この男は娘に敬意を払っているから、札束で頬を叩くような買い方はしない。
「妾になれ」とは言い難く「私には子供がいないので妻とも相談したのですが、うちの家系にあなたの血筋をまぜてくれませんか(子供を産んでください)」と口説く。
娘は手段を問わず返り咲くつもりだから、媚びでも体でも望むなら売ってやろうと考えていたけれど、体目当てならそう言えばいいのにこの言い様は滑稽だと感じる。

この部分を読んで、自分のすべてを差し出してもかまわない、と考えるときの「自分」には「子供」も含まれるのだろうかと考えた。
男の申し出を文字通りに承諾して子を産み相手の家に入れるなら、娘の体や時間のみならず子供の命と人生も差し出すことになる。


で、民話の父親に考えがいった。
「○○をしてくれるなら自分の財産のどれでも好きなものをくれてやる」と父親はいう。
子供は父親の財産だから、父親は子供で支払いを済ませる。
母親は(というか女は)体を差し出す。唯一の財産である自分の体には卵も含まれる。
だから母親が子供を売るときは「この条件をのむならばあなたの子供をうみましょう」という契約になる。
というか、母親が子供を所有できるのは卵のあいだだけなのか。
父親に権利がある世界では、胎児も赤ん坊も少年少女も父親がうっぱらってしまう。
お話のなかの話だし、例外も色々あるのだけれど、そういうことなのかなと考えながら読んでいた。

子供は売られた先で上手に立ち回って、自分の人生を手に入れる。


岡本かの子『渾沌未分』青空文庫
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2014年04月17日

一と全

『ミクロの森』という本を読んだ。
アメリカの原生林のある一点の観察記録。
著者の目はその場所の生物だけでなく、その場所を切り口にして世界をみる。
膨大な知識と深い洞察に知的好奇心を耕される良い本だった。

その本の中に、リスが陽射しを楽しんでいるらしいことはカリキュラムには出てこない、とあった。
生物学は擬人化した比喩を避ける。
現在の生物学が動物の行動に過度に意味を与えない冷静な視線を好むのは、ビクトリア朝の博物学者たちが何でもかんでも自分たちの社会の比喩として読もうとしたことの反省からくるのだそうな。

『ビクトリア朝の昆虫学』を読むと、確かにひどい。
色の薄いちっちゃいアリがでかくて黒いアリを奴隷にしている→黒人を奴隷にするのは自然の摂理!とか。
ハチの社会構造なんか、新事実がでる度にあらたなこじつけが出てくる。

現代日本で出版される本でもアリやハチの社会構造になぞらえたビジネス本や教育指南もどきをみかける。
あの手の本は、動物の世界ではこれが普通なんです、と当然のように書くけれど、なぜか「種付けが終わったオスは食べるか放逐が自然の摂理」みたいな主張はしない。
むしのせかいではとうぜんなのにふしぎだなあ。

都合のいいところだけ取り出して自分の主張を正当化しようとするやり口から距離をおくのは学術の信頼性を高めるために大切だ。


『ミクロの森』に戻る。
文化的な先入観にもとづいた解釈はよくないけれど、「客観的な」科学の目線だけにとらわれるのもまた危険だと著者は言う。
現在の科学で理解できる範囲は全体のごく一部にすぎない。
わかること自体が少ないというのもあるし、科学の解釈からこぼれてしまう部分もある。
たとえば微生物の働きは解明されていないし、リスが「楽しそう」なんて印象は切り捨てられる。
それに数字は生き物の生活をあらわさない。
数字や図形や機械になぞらえれば、使えるかどうかだけが価値になる。

と、ここで、もんじゅ君の対談集で、國分功一郎が言っていたことを思い出した。
小平市が古いむりやりな道路計画を推し進めようとしていることについて。

もちろん地図だけで見て考えたら、道路をまっすぐにしたいという気持ちもわからないではない。
 でも道路は地図のうえじゃなくて、実際に人の住んでいる地域をとおるわけです。現実の世界って莫大な数の関数からできているわけだけれど、地図しか見てない人はそのうちの数個しか考えていない。計画をすすめている側は、想定している関数が少なすぎるんですよ。

『もんじゅ君対談集 3.11で僕らは変わったか』p242



それから、「産む機械」も思い出した。
あれのときに、「でも女が産む機械なのは事実じゃん」といっていた人がいた。
産む機能があることは、産むために存在していることを意味しない。
あれも全体が見えていない人だったんだろうと納得した。

全体をみるには自分を大きくしないと入りきらない。
全体をみる度量はなくても、せめて見えてないことはわかっておきたい。





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2011年02月06日

キャロル・オフ『チョコレートの真実』英知出版

魅惑のお菓子チョコレートをめぐる古今の出来事を丁寧に追っていくルポルタージュ。

最初にチョコレートを作っていたアステカの人たちとスペイン人の出会い。
ハーシーをはじめとするお菓子会社のアメリカンドリーム。
カカオによって一応は潤ったアフリカのゆがまされていく世界。
カカオ農園の「奴隷制」に気づかざるを得なくなった先進国の
罪悪感をなだめてくれるフェアトレードの「きれいな」チョコレート。

チョコレートというキーワードだけでつながる様々な場所を
手広く追いながらも散漫にはならない。論点は終始一貫している。
常に付きまとう「材料の作り手」と「製品の受け手」の断絶。

先進国は自分の欲しい一次産品だけを作れと産出国をそそのかす。
巨大企業は植民地意識もそのままにカカオを買い叩く。
採算が取れない値段で買われるカカオはそれでも換金作物だから、
食うためには食えないカカオをどうにか作り続けるしかない。
無理なカカオ生産を続けるには格安の、できれば無料の労働力が必要になる。
極貧の隣国から働きに出る子供をカカオ農家に売り飛ばすビジネスが跋扈する。
そうやって得た不当なほどにわずかな(しかし結構な額の)対価は、
(この本が書かれた時点のコートジボワールでは)腐敗した権力者の元に流れる。
カカオを生産する農民の多くはチョコレートがなにかすら知らない。

カカオ農園の児童労働や搾取が問題化されて、
楽しいおやつに水を指された消費者の前に現れたのはフェアトレード。
「エコでオーガニックな農法ですよ。しかもちゃんと対価を払っています。
ちょっと高いけど気持ちよく食べられるほうがいいよね」

この本に出てくるフェアトレードはマヤ人とイギリスの会社のケース。
安全で安心で良心的で倫理的なフェアトレードチョコレートは、
マヤ文明のエキゾチックなイメージも相俟って素敵な気分を食べられる。
「フェアな」取引によってマヤ人たちの生活も一応向上した。

イギリスの小売店で一ポンド六〇ペンスで売られている板チョコ一枚当たり、ベリーズの農民は約六ペンス受け取ることになっている。フェアトレード商品でないチョコレートの場合と比べれば数倍とはいえ、決して多くはない。フェアトレードの成功の本当の理由は、実は農民の収入の問題ではない。クレイグ・サムズは、「倫理的」消費の人気が、生産者よりも消費者の問題だと最初に認めた人間の一人だ。「消費者は、自分が問題に関与しているというのを好みません。解決の一端を担わせろと製造会社に要求する。そうやって、熱帯雨林の破壊や地元文化の消滅、地球温暖化といった問題を前にして感じる、絶望や悲観主義や無力感を自ら慰めるわけです」
フェアトレード運動が、途上国の農民に恩恵を与えるよりも、先進国の罪悪感をなだめるものだったにせよ、サムズは農民との約束を守った。p350-351

しかし生活がどれほど向上したとしても、結局マヤ人が携わるのは、よそで製造されるチョコレートのためのカカオ豆の生産だけだろう。ヨーロッパの関税障壁が食料製品の国内への流入を阻んでいる。輸入できるのは原料だけだ。消費者がほしい商品を手に入れ、かつ、ヨーロッパの労働者が必要とする製造業の職を得られるようにするためだ。この状況が変わり、カカオ豆以外のものを輸出できるようになるまでは、マヤ人は彼らの名前のついた高いチョコレートが買えるほど豊かになることは決してないだろう。p352


チョコレートを作るパティシエが讃えられることはあれど、
カカオを生産する農民たちが光を当てられることはない。
ていうか見たくないから目をそらされ続けてきた。
だって私の一口の幸せが、こんなにもひどい搾取によって
生まれているなんて知ってしまったら安穏とおやつを楽しめない。

消費者にも企業にも専制君主にも先進国にも良心はある。
あるけど経済の前には吹けば飛ぶようなちっぽけなものだというだけだ。
不平等は悪の大企業と非人道的な経済大国が
強欲な独裁者を利用することによってのみ起こるものではない。
その裏にはそれを許し、動かし、目をつぶって
もっと良い物をもっと沢山もっと安くと欲しがり続ける消費者の存在がある。


私がいつも買う板チョコはコンビニやスーパーで一枚100円くらいで売られている。
(でも私は特売69円か、せいぜい79円のときにしか買わない)
私のこよなく愛する板チョコが品質も内容量もそのままに200円になったら、
私はそれを納得して買えるだろうか。
先進国が搾取をやめて途上国が安い労働力ではなくなったとき、
先進国に住んでいる私はチョコレートを買えるだけの富を持っているだろうか。
その状況を受け入れられるだろうか。





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寄せ植えの地球
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2010年12月07日

清水尚『All we need is Love』講談社

アメリカの(?)同性カップルとその子どもたちの写真集。
食事をしたり、テレビを見たり、おもちゃで遊んだり、プールに入ったり、ひなたぼっこをしたりする、普段暮らしている場所での家族の風景。
なんかもう、すっごいにやにやする。

裕福そうな白人男性カップルが多くて、ああやっぱり受け入れ態勢(経済的なことだけじゃなくて、周囲の環境や文化)が整っていないと難しいのだろうかと考えてしまうんだけど、でもやっぱりにやにやする。
(親と人種の違う子どもや、裕福じゃなさそうなレズビアンもいる)

いかにもエリートそうな堅い雰囲気のおじさんが、これまたエリートっぽいパートナーと並んでベッドにこしかけたシーンの似合わないTシャツ姿とか、
レズビアンカップルと子供たちがみんなでソファにごろんとねっころがって目を見合わせた笑顔だとか、
アラブ系っぽいゲイケップルが赤ちゃんを見つめる愛おしさが溢れんばかりの顔だとか、
親子の写真も親だけ・子どもだけの写真もみんな可愛くて幸せになる。

家族礼賛や、家族になったから「普通」だと認めてやるのではなく、
家族になれるし、こうやって幸せにだってなれるんだと当事者にも非当事者にも信じさせてくれる素敵な写真たちだ。


All we need is Love



と、思ったんだけど後書きを読んだらテンションさがった…。
どヘテロな肯定っつうか「容認」っつうか…

「自然な流れで「家族」を築くことを決意する」とか、
この関係は「自然に生まれたものではありません」とか、
しかし「不自然さを感じることはありませんでした」とか
「血のつながりを超えた「純粋な愛」」とか、
この親たちは深い愛情を受けて育ってきた(に違いない)とか。

これじゃあ「自然じゃないけど愛があるから認めてあげる」みたいじゃないか。
そういう余計な条件付けのない肯定をみたかったんだけどな。

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2010年10月18日

三森ゆりか『外国語で発想するための日本語レッスン』白水社

前にテレビだか雑誌だかで、
韓国か中国の映画に出た役者さんのインタビューを見た。

監督からあなたはこのシーンをどのように演じたいかと聞かれ、
「観客に伝わるように」と答えた。

「いやそうじゃなくて、どのように演じるか」
「え、心を込めてがんばります…?」
「いやだから…」
どうにも噛み合わない。

通訳を介しているからうまく伝わらないのか?と
お互いが思ってその場は流れたけれど、しばらくしてわかった。
監督が聞いていたのは具体的にどう動くかだった。
日本と違って役者の裁量に任される部分が多い。

というような内容だった。


そうか、あれは撮り方じゃなくて、読み方の違いだったんだな。
監督(先生)の解答を読むんじゃなくて、
テーマを読み取り、それを基にした自分の考えを述べる。
てなことを思いながら読んだのがこの本。



外国(この外国とは欧米らしい。アジアは日本しか出てこない)と
日本の“母語教育”(母語とは限らないけど日本で言う「国語」教科)の
違いを述べ、外国人とつきあうにはまず読み方(文章に限らない理解の仕方)を
知るべきだとして、そのやり方の入り口を書いた本。

事実(書かれていること)を読み、
それを根拠に説明するという思考法を知るのは面白い。
でも、実践部分は、それは本当に読めているのかと疑いたくなる。
思考するための文章の本だったら山田ズーニーのほうが断然おすすめ。


さて感想。

(主に)ヨーロッパの学校教育では、
「テクストの解釈と分析・批判(Critical Reading)」
というものを徹底的に身につけるという。

テキストを厳密に読み込み、根拠に基づいた意見を出せる論理的思考。
単によろこんだ、かなしんだ、ではなく
「主人公はあれを失ったことを悲しんでいる、なぜなら何ページの記述で〜」
と説明できるように訓練する。
内容を理解していなければ説明はできない。

日本の“国語”(という教科)の読み方は、
「このときの登場人物の気持ちを次の文章から選びなさい」
「作者の心情をのべよ」というもので、
“道徳”に近いと書かれていてすごく納得した。

でも言語的な違いと教育や読み方の違いを混同しているふしがある。
たとえば複数形・単数形や詩の形式など、日本では曖昧にされるけれど
欧米ではきっちり分けるという説明がよく出てくる。
それって複数単数を気にする言語ではそこに注意しましょうってだけだと思う。
名詞に男女がある言語ならそこを気にすべきだし、
日本語なら敬語尊敬語謙譲語とか叔母伯母小母あたりに気をつけるべし。

で、いきなりやれってのもなんなので、
というかできないので、まずは絵を読んでみましょうと、
絵を何点か例示して次々と問いを立てていく。

この場面は何を描いていますか?
場所はどこですか?
何時ごろですか?
季節は?
天気は?
人物はなにをしていますか?
この物体はなにを象徴していますか?

そして、問いのひとつひとつに根拠を求める。
季節は秋である、なぜなら街路樹が紅葉しているから。
時間は早朝か夕方である、なぜなら長い影がおちているから。

とまあその辺りは面白かった。
そうか京極堂の絵解きは論理的思考の賜物だったんだな。


が、テキスト解釈に入ったらなんだかうなづけない。
私の解釈と違うからというのが大きいけれどいやそれにしてもどうかなあ。

たとえば「赤ずきんちゃん」。
著者が訳したテキスト自体も俺解釈強すぎじゃないかと思うんだけど、
やってみたあとの結びが恐かった。

「赤ずきんちゃん」を題材に高校生に読ませたときに、
学校で習ったフランス革命をこのストーリーにあてはめて
理解できるようになった、と感想をもらったそうな。

一般民衆であるお母さん(母は直接オオカミの餌食にはなりませんが、最愛の娘の喪失によりオオカミの被害者となります)と赤ずきんちゃん、それよりされに低い立場にあるおばあさんが暴君のオオカミによって危機的状況に陥ると、武器を携えた英雄の狩人が立ち上がります。そして、己の力を過信し、慢心した暴君を始末して乱れた社会秩序を彼が正し、一般民衆である赤ずきんたちに再び平和が訪れます。このように「赤ずきんちゃん」が理解できると、確かにフランス革命のおおよその意味は理解できるようになるでしょう。また、「赤ずきんちゃん」のような物語は、社会で発生するさまざまな事件に当てはめて理解することも可能です。


ええええええええええええええ。

そんな単純化した正義に読んじゃダメだよ!
悪化してるよ!読み方が浅く狭くなってるよ!


『静かな家』という超短編の例はさらにすごかった。
女性が一人称視点でご近所がうるさくて困っちゃうのよねえと
淡々と語っていくけれどよく聞くとそれおかしいのアンタだよ!という話。
要約しちゃうと大手小町の太公望みたいだけど、
上手な人が書くとホラーになる。

その読み方(分析)がまた、え、それ以外にどう読むの?という
普通のものなんだけどそれはまあいいや。
まとめがおかしい。

一人称で書かれた『静かな家』のような超短編小説は、分析をしながら読んだ後、批判的に検討し、社会の一員として生きる自分自身の暮らし方や生き方について省みることに意味があります。


(この対応はどうなの?他の方法はなかったの?どうすれば平和に解決できたの?などの「検討」案を列挙して、)

右のように、さまざまな観点から『静かな家』に内包された問題点について考え、社会で生きるための知恵に生かしていくことにこそ、小説を分析し、批判的に検討することの意味があるのです。


違うよ!!!!!
いやいやいや意味ってそんな!
小説は教材になりうるけれど道徳的な教材として存在しているわけじゃないよ!
そもそもこれワイドショーをみて我がふり直せみたいな話じゃないよ!?
日常に潜む恐怖が下世話なご近所トラブルに成り下がっちゃってるよ!
いやご近所トラブルは日常に潜む恐怖だけれども!

『ミザリー』を観てファンとの距離感って大事だよね、
事務所を通した交流以外は避けたほうがいいね、
という感想を抱くみたいな違和感だよ!


問いを立てるのは深く読むためで、
根拠を求めるのは自分の思い込みを修正し、
他者に説明できるようにするためだと思うんだよ。
わかりやすい形にあてはめるためじゃなくて。
なのにこの人の読み方は、思い込みをより強くしてしまいそうだ。


私は今までこういう思考の訓練はぜひともやるべきだ、
必要だと思っていたのだけれど、これを読んで不安になった。
「論拠を示す」の上っ面だけを真似ると、
むしろ詰め込み礼賛の思考停止に拍車をかける。

考えるための思考を助ける「論拠」が、
「論理的に考えてAがBなら答はCになる」ではなく、
「教科書○ページに書いてあったもん!」という
「持論の根拠」にすり替わってしまいそうだ。

「根拠がある」といったって解釈は自分のものにすぎない。
たとえば「泣いていた」という一文を根拠にするにしたって、
悲しいから泣いていたのか嬉しいから泣いていたのか、
はたまた演技なのか、わからない。
「泣いた理由」の根拠を他から持ってきたって、それも自分の印象による判断だ。

でも「根拠があるから」自分の思い込みだけの時よりも
自分の「正当性」を強く主張できる。それがこじつけでも。
ネット上にそういう不毛な論争よくあるよな…

前にテレビで大阪府知事(当時はただのタレントかな?)が
弁護士の卵かなにかと仮想法廷で「ろんそう」しているのを見た。

府知事:その言い分に根拠はありますか
卵:判例があって…
府知事:判例ですかいつですか
卵:何年何月のなんとか事件でどうのこうの
観客:おぉー!(拍手)

こういう知識はすごい。
考えるための材料となる知識を
参照しなくてもパッと頭から出せるのはすごい強みだ。
ただ、「論理的に考えられる」と「論拠を提示できる」は似て非なる。
覚えさせるだけの教育は「論理的思考」とは対極なのに見た目はよく似ている。
権威に根拠を求めるだけでは、判例や教科書に反論できない。

適当な思いつきだろうが「論理的」な考えだろうが、
答がないものは合意に達しない。
この読み方の良い点は、読み方自体もだけど
論争の訓練ができるってことなんじゃないかと思う。
でもそれも、思いつきに誰かの後ろ盾という「論拠(根拠)」を提示して
勝ち誇るだけに終わってしまうなら、
声のでかい奴が得をするだけの方向にいきそうだ。


微妙に関連
どうとくのじかん
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