真の暗闇を体験するドイツ発祥のイベント、ダイアログインザダーク(DID)の日本版を主催した人の手記。
良いのはイベント自体への興味がわくこと。行きたい。もっと知りたい。
悪いのは著者のマジョリティぶり。
自分が知らないだけのことを「知られていない」と思いこんでいる無知にいらいらする。
日本版のDIDは「ダーク」より「ダイアログ」に比重をおいて、ソーシャルビジネスとして成功をおさめているらしい。
普段目にたよった生活をしている人は暗闇に入ると無力になる。
他の感覚にたより、他者にたより、目から入る情報に惑わされずにフラットな関係をつくる経験が、あらたな価値観につながる。
暗闇で戸惑う入場者たちをサポートし、案内するのは全盲の視覚障害者たちだ。
私がDIDをはじめて知ったのは、10年くらい前だった。
短期のイベントだったころに学校の先輩がアテンド(案内役)のバイトをやるからとチラシをくれた。
そのときは行きたいと思いつつ微妙に遠いしお金ないしでためらううちに機会をのがしてしまった。
今これを読んで、行けばよかった、先輩の体験を聞けばよかったと後悔してる。
DIDが変化をもたらすのは体験した晴眼者だけではなく、アテンドの視覚障害者、関係する晴眼者、街の雰囲気にまで及ぶ。
著者もDIDにかかわるうちに変化する。
視覚障害者とかかわった経験のない人が視覚障害者と実際に接していろんなことに気づいて行く。
ただ、その気づきが遅いし当たり前だしですごくいらいらする。
視覚障害者も人間だなんて当たり前すぎる発見だ。
そもそも「視覚障害者」という言葉でアテンドをくくるのがおかしい。
暗闇で動き回れるのは「全盲」の人であって、全盲は視覚障害だけど視覚障害=全盲ではない。
しかもアテンドは全盲のなかでも「動き回れる」「イベントに参加するくらい積極的で自立した」人たちだ。
それを理解していないから、「視覚障害者の持つ高い能力」などという薄っぺらいステレオタイプな表現になる。
「日本人の繊細な感覚」「私たちが忘れてしまっている〜」というステレオタイプも頻出する。
でも、そういう人がアテンドたちとかかわるうちに、この人たちはシカクショウガイシャという生き物ではなく目が見えないただの人なんだと気づいていくようすは、どっぷりマジョリティにつかった人が目を開いていく過程そのものだ。
変われるのは希望。だけどまだまだ。
たとえば東日本大震災のときにアテンドに「実家に帰るよう指示した」というけれど、ふつう「対等な関係の成人」にそんな「指示」はしない。
ただどうもこれは著者の性質にもそうとう原因があるようだ。
DIDの独自性をしめす一例として「お金を払ってサービスをうけるがわから礼を言われるなんて普通はない」とあった。
いやいや、接客業なんてそれがあるからやっていけるようなもんだろうよ。
が、読み進めたら高速の料金所の人を人とも思わないような対応をして同乗者に注意された体験が書いてあった。
それをみて、ああよくいる感じ悪いおっさんたちは、感じ悪くふるまっているんじゃなくて本当に「できない」のか!とびっくりした。
自分と関係ない人は「人」に見えない人がいる。
この本で一番の発見はそこかも。
イベントを続けるうちに全盲スタッフと晴眼スタッフの関係が、被保護者と保護者のようにゆがんできた、という話も「普通の会社ではありえない」とあった。
いやいやありますがな性別やら年齢やらで。
「女の子はむりしなくていいから」みたいなパターナリズムはむしろ一般的でしょうや。
『マルコムX自伝』にも、黒人集団のなかに白人がいると黒人がダメになる。とあった。
女子校の女の子たちはなんでも自分でやるけれど共学の女の子は積極性が抑制されるという話にも通じる。
抑圧されているがわは他人をおしのけてまでリーダーになる自信や習慣がないから、マジョリティがでばってくると後ろにさがってしまう。
これは双方とも意識して気をつけなきゃいけないことだ。
読んでいるあいだじゅうものすごくいらいらしたんだけど、読んでみて後悔はない。
琴線に触れるものがあるからイライラするタイプの本なんだと思う。

暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -

完訳マルコムX自伝 (上) (中公文庫―BIBLIO20世紀) -

完訳マルコムX自伝 (下) (中公文庫―BIBLIO20世紀) -










