最初にチョコレートを作っていたアステカの人たちとスペイン人の出会い。
ハーシーをはじめとするお菓子会社のアメリカンドリーム。
カカオによって一応は潤ったアフリカのゆがまされていく世界。
カカオ農園の「奴隷制」に気づかざるを得なくなった先進国の
罪悪感をなだめてくれるフェアトレードの「きれいな」チョコレート。
チョコレートというキーワードだけでつながる様々な場所を
手広く追いながらも散漫にはならない。論点は終始一貫している。
常に付きまとう「材料の作り手」と「製品の受け手」の断絶。
先進国は自分の欲しい一次産品だけを作れと産出国をそそのかす。
巨大企業は植民地意識もそのままにカカオを買い叩く。
採算が取れない値段で買われるカカオはそれでも換金作物だから、
食うためには食えないカカオをどうにか作り続けるしかない。
無理なカカオ生産を続けるには格安の、できれば無料の労働力が必要になる。
極貧の隣国から働きに出る子供をカカオ農家に売り飛ばすビジネスが跋扈する。
そうやって得た不当なほどにわずかな(しかし結構な額の)対価は、
(この本が書かれた時点のコートジボワールでは)腐敗した権力者の元に流れる。
カカオを生産する農民の多くはチョコレートがなにかすら知らない。
カカオ農園の児童労働や搾取が問題化されて、
楽しいおやつに水を指された消費者の前に現れたのはフェアトレード。
「エコでオーガニックな農法ですよ。しかもちゃんと対価を払っています。
ちょっと高いけど気持ちよく食べられるほうがいいよね」
この本に出てくるフェアトレードはマヤ人とイギリスの会社のケース。
安全で安心で良心的で倫理的なフェアトレードチョコレートは、
マヤ文明のエキゾチックなイメージも相俟って素敵な気分を食べられる。
「フェアな」取引によってマヤ人たちの生活も一応向上した。
イギリスの小売店で一ポンド六〇ペンスで売られている板チョコ一枚当たり、ベリーズの農民は約六ペンス受け取ることになっている。フェアトレード商品でないチョコレートの場合と比べれば数倍とはいえ、決して多くはない。フェアトレードの成功の本当の理由は、実は農民の収入の問題ではない。クレイグ・サムズは、「倫理的」消費の人気が、生産者よりも消費者の問題だと最初に認めた人間の一人だ。「消費者は、自分が問題に関与しているというのを好みません。解決の一端を担わせろと製造会社に要求する。そうやって、熱帯雨林の破壊や地元文化の消滅、地球温暖化といった問題を前にして感じる、絶望や悲観主義や無力感を自ら慰めるわけです」
フェアトレード運動が、途上国の農民に恩恵を与えるよりも、先進国の罪悪感をなだめるものだったにせよ、サムズは農民との約束を守った。p350-351
しかし生活がどれほど向上したとしても、結局マヤ人が携わるのは、よそで製造されるチョコレートのためのカカオ豆の生産だけだろう。ヨーロッパの関税障壁が食料製品の国内への流入を阻んでいる。輸入できるのは原料だけだ。消費者がほしい商品を手に入れ、かつ、ヨーロッパの労働者が必要とする製造業の職を得られるようにするためだ。この状況が変わり、カカオ豆以外のものを輸出できるようになるまでは、マヤ人は彼らの名前のついた高いチョコレートが買えるほど豊かになることは決してないだろう。p352
チョコレートを作るパティシエが讃えられることはあれど、
カカオを生産する農民たちが光を当てられることはない。
ていうか見たくないから目をそらされ続けてきた。
だって私の一口の幸せが、こんなにもひどい搾取によって
生まれているなんて知ってしまったら安穏とおやつを楽しめない。
消費者にも企業にも専制君主にも先進国にも良心はある。
あるけど経済の前には吹けば飛ぶようなちっぽけなものだというだけだ。
不平等は悪の大企業と非人道的な経済大国が
強欲な独裁者を利用することによってのみ起こるものではない。
その裏にはそれを許し、動かし、目をつぶって
もっと良い物をもっと沢山もっと安くと欲しがり続ける消費者の存在がある。
私がいつも買う板チョコはコンビニやスーパーで一枚100円くらいで売られている。
(でも私は特売69円か、せいぜい79円のときにしか買わない)
私のこよなく愛する板チョコが品質も内容量もそのままに200円になったら、
私はそれを納得して買えるだろうか。
先進国が搾取をやめて途上国が安い労働力ではなくなったとき、
先進国に住んでいる私はチョコレートを買えるだけの富を持っているだろうか。
その状況を受け入れられるだろうか。
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